ある言葉に、、、
『疲れた。』は、頑張った証。
『失敗した。』は、挑戦した証。
『緊張する。』は、本気の証。
『怒る。』は、真剣な証。
『泣く。』は、我慢の証。
『つまずき。』は、一歩踏み込んだ証。
という「証」を見ることで、その人の「良心」が見えてくることを教えて頂きます。
おやさまは、盗人の罪人にさえも、そうならざるを得ない「証」の方を見て、
『貧しさのあまり、心を沸かして盗むのであろう。その心が可哀想や。』
と仰せられました。
当時の厳しい官憲に対しても、そうせざるを得ない「証」の方を見て、
【反対する者も可愛い我が子。】(M29.4.21)
と、大きな親心で受け入れられました。
どんな時も、、、
【心を見定めて…治めて掛からにゃならん。】(M36.9.18)
と仰せられているように、、、
笑っていても「心では」泣いている人。
怒っていても「心では」謝っている人。
ぶっきらぼうでも「心では」寂しがっている人。
知らないふりして「心では」想ってくれている人など、、、
言動の奥にある「心では…」の部分を見合えた時に、
本当の治まりが生まれることを思い出して・・・
今日は、お互いの「証」を察し合える一日にしたいですね。
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